こんぶコラム | 段野昆布 - 創業1834年(天保5年)

こんぶコラム

昆布資料館

過日法政大学4回生が卒論の資料集めのため昆布資料館に来館、大阪府堺市の昆布業界の戦前戦後の変遷を明らかにしたいとのことでした。

堺は戦前にはおぼろ・とろろ昆布などの手加工品の全国一の生産地でした。統制経済と戦後混乱期を経て高度成長期に入り、堺泉北工業地帯が活気づくと昆布加工職人が給料の良い工場へ流れ、また食生活の変化から手加工業は衰退しました。そして現在では戦後いち早く機械とろろや昆布菓子、塩昆布製造等を手掛けた業者が盛況を極めています。

法大学生は先に堺の主だった業者を訪問して聞き取りを済ませ、あとは各種資料に当たって論文の仕上げをしたいとのことでした。

弊社のホームページで昆布図書館を知っての来館でした。過去にも近畿大学、京都大学、島根大学の学生が来ました。昆布の研究者や料理研究家・マスコミ関係者などもいらっしゃいますが、特に若い人たちが昆布に関心を持ってくれるのは大変うれしいことで、つい全力で後押ししてあげようとの気になります。

論文が出来上がったらぜひ読んでいただきたくお届けします、との帰り際の言葉でした。とても楽しみにしています。

昆布資料館は、「こんぶぶんこ」が管理運営しています。「こんぶぶんこ」は平成9年に喜多條清光氏(株式会社 天満大阪昆布 社長)と二人で立ち上げた団体で、昆布に関する資料の収集と研究、広報、出版等を目的としています。

収集できた資料はまだまだ少ないですが、それでも一ヵ所で昆布関連資料を閲覧できるところは他になく、それなりの役割を果たしているものと自負しています。

なお画像は「週刊水産新聞」2017年3月27日号

(2017年11月12日 記)

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山崎豊子さん

山崎豊子さん

山崎豊子さんと聞けば何を思い浮かべられますか?小説「白い巨塔」?「沈まぬ太陽」?「大地の子」? 私たち昆布屋にとっては処女作「暖簾」です。1957年(昭和32年)の発刊。

主人公八田吾平は明治29年に淡路島から15歳で大阪に働きに出て、昆布商浪花屋で修業を重ねて独立、息子の幸平が戦中戦後の混乱期を乗り越えて店を再興する、という小倉屋山本をモデルにした小説です。

山崎さんは1924年(大正13年)に大阪の老舗昆布店株式会社小倉屋山本の三代目社長山本利助氏の妹に生まれ、2013年(平成25年)9月に89歳で亡くなられました。京都女子高等専門学校(現京都女子大)卒業後毎日新聞社に勤務、当時同新聞社の学芸部デスクであった故井上靖氏の薫陶を受けました。その後作家の道を進まれ、生れた処女作が生家の昆布屋を舞台にした小説「暖簾」であったのです。

小倉屋山本が平成10年に創業150周年を記念して発刊した「なにわの昆布の物語」の巻頭文で山崎さんは次のように述べておられます。

「思えば、『暖簾』を書くことによって、多くのことを学び、畏敬する知己を得ることが出来、作家の一里塚を築き得た。人から一番、好きな作品はと問われると、処女作『暖簾』と答える。意外そうな顔をされることがあるが、『暖簾』は、私が生まれたふるさと、大阪を舞台に、暖簾に育った人間の血肉を描いた作品である。常にユニークでダイナミックな大阪の街と、暖簾精神を貫く大阪商人の存在が、わたしに『暖簾』を書かせたのである。私は、ふるさとと、大阪の人々に、限りない感謝を捧げたい。」

大阪昆布商工同業会という昆布業者の組合が昭和40年に創立65周年記念誌を発刊しましたが、その中の対談記事の中に次のような文章があります。この本がいかに昆布業界に大きな影響を与えたかが窺い知れます。

【山本利助】
大阪名物として昆布は、それまでに上げ潮にあった。健康と美容によいと、業界が一致結束して宣伝に乗り出していたやさきに、あの『暖簾』が出た。そして、映画にもなった。そして全国津々浦々まで、これがまわったわけです。下地はありタイミングはよし、そこへ各地の業者が率直に乗っかり、積極的に利用した。当時ある製菓会社の宣伝部長など「宣伝費に換算すれば5千万円に相当する」とうらやましがってました。

【登喜平】
私が何より強調したいのは、あの『暖簾』が、それまで低調やった“こんぶ屋意識”を目覚めさせてくれたことです。(以上237ページ)

【山本利助】
昔なら、気のはるところへは、おぼろやとろろの箱入りを持ってゆけなかったもんです。デパートを見ても、昆布売り場は、昔は乾物売り場の一部でしたが、このごろでは、乾物売り場が小そうなって、昆布と海苔の売り場がぐっと目立つようになった。売れるからデパートも昆布を重視するんです。

【村井喜久夫】
商品の格も上がりましたが、昆布屋の格も上がりました。昔は旅行しても「昆布屋か」と軽く扱われたもんですが、このごろは一流に扱ってくれます。(以上188ページ)

なお、故村井喜久夫氏は、大阪で最も古い歴史のある昆布商の9代目でしたが、今は廃業されています。初代の昆布屋伊兵衛は元禄7年(1694年)生れ、三代目伊兵衛は村井求林という和算の大家で町人学者として有名でした。

刻み昆布

刻み昆布

「刻み昆布」ってご存知ですか?乾燥した昆布を釜ゆでして柔らかくし、細く切断してから改めてよく乾燥させます。歴史的には1721年(享保6年)頃大坂で初めて作られたようです。最初は包丁で刻んでいましたが、30数年後に京極若狭之助という人が、昆布を積み重ねて圧縮し横からカンナで削る方法を編み出して生産量が一気に増えました。寛政3年(1791年)長崎から小浜・敦賀に伝わり、文政年間(1820年台)江戸に、そして幕末の嘉永4年(1851年)には箱館にも生産地が広がりました。

 古くから昆布は中国へ輸出されていたことは広く知られていますが、幕末からは平たい昆布だけでなく刻み昆布も輸出対象になりました。そして明治初期には外貨獲得のために昆布も、生糸・お茶と並んで重要輸出産品に指定され増産が図られました。

 刻み昆布の大産地であった大坂の刻み昆布だけに焦点を当てて、農商務省が「大阪市刻昆布製造調査報告書」(農商務省水産局 農商務技師 奥健造著 明治37年3月)を発行しています。今の昆布業界では考えられません。明治29~33年の5年間の輸出統計が掲載されていますので紹介します。

板昆布・刻み昆布合計輸出量
千斤 板昆布 板 比率 刻み昆布 刻み比率 左合計
明治29 29,175 83 5,770 17 34,945
明治30 40,357 89 4,758 11 45,115
明治31 33,431 84 6,342 16 39,774
明治32 39,667 86 6,530 14 46,197
明治33 30,988 86 5,053 14 36,041
合計 173,618 86 28,453 14 202,072
平均 34,724 86 5,691 14 40,414

5か年平均を出してみると輸出港別では下記のようになります。

板昆布・刻み昆布合計輸出港別(千斤)
  横浜 神戸 大阪 長崎 函館 その他 合計
平均 10,240 3,868 161 88.0 25,940 128 40,425
25 10 1 0 64 0 100
刻み昆布輸出港別(千斤)
  横浜 神戸 大阪 長崎 函館 その他 合計
平均 3,885 852 22 1 944 2 5,707
68 15 0 0 17 0 100%
板昆布輸出港別(千斤)
  横浜 神戸 大阪 長崎 函館 その他 合計
平均 6,356 3,017 139 88 24,996 127 34,724
18 9 1 0 72 0 100

幕末に横浜や神戸と同時に開港された箱館では、中国で昆布が大量に消費されていることを知っていた米英の商社が中国人と共に箱館に殺到し、米英の輸送船で輸出されていたのですが、明治30年前後にもまだ圧倒的に函館からの輸出が多かったことがわかります。そして刻み昆布では逆に圧倒的に横浜です。関東一円で幕末から製造が始まった刻み昆布がほとんど輸出に向けられたのです。大阪の刻み昆布は国内外用、小浜・敦賀のは国内用、関東・函館のは輸出用が主だったのです。

さて刻み昆布には青刻み昆布とそうでないものとがありました。青刻み昆布とは銅含有の染料で青く染めたものです。特に輸出用にはこれが好まれました。ところが明治23年に内務省から「有害性着色取締規則」が発布され、その着色料が使用禁止されるようになり、刻み昆布業界がパニックになりました。大阪の吹田篤造氏が先頭に立って何度も何度も中央官庁に交渉に行き、とうとう昆布には例外的に一定量の使用が認められました。この時大阪の刻昆布同業組合では吹田氏にその功績を称え感謝状と銀杯を贈呈したほどです。この吹田篤造氏は現在築地の場外市場で営業されている株式会社吹田商店の社長の曾祖父に当ります。

戦後しばらく国内需要も旺盛で、お盆時期になると精進料理用にかなり需要がありましたが、食生活の在り様が変わり今では細々とした需要となってしまいました。しかし先に述べたように日本経済にはかなり貢献した食品であったことだけは記憶に留めておきたいものです。

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大和本草

高校で選択科目の日本史を避けて世界史を取った身には、貝原益軒と云えば「養生訓」の名しか知らなかったのですが、人生の集大成に宝永6年(1709年)80歳で出版したのが「大和本草」だったのですね。

本書の「巻八 草之四」に「昆布」が掲載されています。

「京都の市に昆布を刻み売る者多し。細麤あり細く切ること金絲烟のごとくなるあり。凡そ昆布を煮るは銅鍋良し、鉄なべを用いるべからず。」

昆布は藤原京・平城京の時代から蝦夷地より朝廷に献上されていました。1300年頃玄恵法印作と言われている狂言「昆布売り」には若狭小浜の昆布売りが昆布を背負って京都へ売りに行ったことを題材にしており、当時もうかなり手広く昆布が普及していたことが類推されます。ただどんな調理法で昆布が食べられたのかを歴史的に検証できる資料は少なく、拾い集めるしかありません。

昆布菓子、細工昆布(おぼろ・とろろ類)、刻み昆布、煮昆布、出し昆布と大別して、この大和本草では刻み昆布を煮て食べられていたことを知ることが出来ました。

昆布に関する書籍には大和本草のこの箇所の引用を見ますが、実際に画像として見たのは初めてでした。孫引きや孫孫引きも便利ですが、画像だけとはいえ原本が見られると実に感動ものですね。HPで掲載して下さっている中村学園大学図書館に感謝です。

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