昆布ヒストリア | 段野昆布 - 創業1834年(天保5年)

昆布ヒストリア

昆布食文化の歴史

平安時代の文献に既に現れているように、遠く蝦夷地(当時は東北・北海道)の産物である昆布が古くから朝廷に献上されていました。当初は昆布菓子としてそして調理材料としてであったようです。

1300年頃になると狂言「昆布売り」に見られるように、若狭の小浜で厳選された「召しの昆布」が鯖街道を通って今日の都に運ばれ、市中で売りに回られていました。このころにかなり広く町衆にも使われていた証拠でしょう。

徳川時代になり松前藩が北海道を支配するようになりました。1万石扱いだったそうです。米は取れなので漁業に重点が置かれました。鮭・鰊・昆布などです。このころから近江商人が多く出入りし、場所請負制による漁業生産物を手広く扱っていました。1640年の道南の駒ケ岳大噴火の折に多数の昆布採り漁船が遭難したという記録が残っています。

昆布ロード

1639年に加賀藩が初めて下関経由でコメを直接大坂へ船で運んだのをきっかけにして1670年河村瑞賢が蝦夷・酒田から下関回りで大坂に直接行く西回り航路を整備しました。それまでは松前の産物は近江商人の手で日本海を南下し敦賀や小浜で陸揚げ→山越えで琵琶湖北岸へ→船運で大津へ→京・大坂へと運ばれていました。西回り航路開拓によって次第に琵琶湖ルートは衰退してゆきます。

昆布の生産は次第に増加していたのですが、漁業請負制によって商人が直接漁業生産に携わるようになり1710年頃から昆布の生産は道南から東へ日高・十勝・釧路まで広がり一挙に増産されました。そして西回り航路で箱館から大坂へ昆布が大量に運ばれることになりました。

河村瑞賢は西回り航路と同時に東回り航路も開拓し、蝦夷の産物が少しは直接江戸に届くようにはなりました。しかし江戸と大坂の繁栄ぶりから双方を結ぶ交通路が発展し、蝦夷産物も大坂経由で江戸へ運ばれることが多かったようです。蝦夷地の開拓が進み噴火湾からさらに日高三石あたりまで進んで昆布の生産量は急激に増加してゆきました。そして昆布も江戸へ届けられる量も増えてゆきました。

今一つ高田屋嘉兵衛の業績があります。幕府の命により1799年に択捉航路を開拓し、国後・択捉島北方での漁業生産の道を開いたのみならず、箱館港の築港や函館大火後の復興などに私財を投じて箱館を北海道の主要港に作り上げました。そして昆布の生産地は釧路・根室から北方領土にまで広がり、中国へ大量に輸出することが出来るようになりました。

以上のように蝦夷地の昆布が色々なルート変遷をたどったその経路を「昆布ロード」と故大石圭一先生(北大名誉教授)は名づけられました。このロード沿いに昆布の食文化が今もしっかりと根付いています。

ページトップに戻る

昆布の調理方法の変遷

平安時代の昆布菓子に始まり次第に朝廷や神社仏閣での精進料理、茶懐石などの食材として使われるようになりました。1721年頃から刻み昆布が、1760年頃には細工昆布が工夫されたようです。刻み昆布とは名の通り昆布を細切りしたもの、細工昆布とは表面を削って作るおぼろ昆布やその派生品です。室町時代から昆布巻や昆布佃煮もあったようです。

明治に入り大阪の名品店ガイドブックの「浪華の魁」には他業種の名店と並んで数件の昆布小売り店が掲載されており、明治36年の大阪での内国勧業博覧会では昆布屋が数社大賞を取りました。また大正7年に大阪市に公設市場が設置されるや昆布屋がその指定業種になって公設市場に必ず昆布小売商が入ったように、昆布は広く関西の庶民に愛され続けました。

戦後山崎豊子(現在の株式会社小倉屋山本の係累)の小説「暖簾」で昆布に注目が集まり、新製品「汐吹き昆布」、養殖昆布の柔らかい特性を生かして「おやつ昆布」や「酢昆布」の新商品が開発されました。

クーブイリチーに代表される沖縄料理は長らく沖縄の人たちの長寿の源とされてきましたが、若年層の食事のアメリカ化が進んだ結果その効果も薄れてきています。北海道から一番遠い沖縄で昆布が多く食されてきたのには歴史があります。

琉球王朝は貿易立国であり広く中国や東南アジア、日本本土との交易で栄えていました。中国で昆布が珍重されることを知っていた薩摩藩は琉球侵攻のあと昆布等を琉球との取引に使っていましたが、幕末になって藩財政の立て直しの際に大量の昆布を琉球を通じて中国に販売し、莫大な資金を手に入れたとのことです。前記の大石先生によれば、明治維新は昆布によって成し遂げられたのだそうです。

ページトップに戻る

昆布関連の歴史年表

797年 霊亀元年 797年完成の続日本紀に「朝廷に昆布を貢献」の文言(蝦夷須賀君古麻比留が朝廷に先祖以来貢献と)
927年 延長5年 延喜式に昆布関連記事(陸奥国昆布、策昆布、広昆布、細昆布等の名)
12世紀末 鎌倉幕府の命により津軽の豪族安東氏が蝦夷管領に任ぜられる
1300年頃 玄恵法印作?狂言「昆布売り」
南北朝末~室町初期? 庭訓往来(ていきんおうらい)に宇賀昆布の産地は箱館・江差、志海苔昆布などの文字(赤昆布を上品とす)
1392年 元中9年 京都 松前屋 創業
1457年 長禄元年 コシャマインの乱 武田信広が鎮圧し、その後蛎崎家を継ぎ、安東氏の代官として蝦夷地を支配
1600年頃 慶長年間 清国への輸出わずかづつあり
松前藩 1万石格 蝦夷地を区分わけしそこの交易権を家臣に与えた
1609年 慶長14年 薩摩藩の琉球侵攻
1639年 寛永16年 加賀藩が初めて米を下関経由で大坂へ移出。西回り航路の嚆矢
1640年 寛永17年 北海道 駒ケ岳噴火により100艘余りの昆布船が遭難
1669年 寛文9年 シャクシャインの乱(日高地方)
1670年 寛文10年 河村瑞賢 幕命を受け、奥羽の官米を江戸に回送するため阿武隈川の河口から江戸へ向かう東廻り航路を整備 
1672年 寛文12年 河村瑞賢 酒田から下関を通り大坂までの西回り航路を整備
寛文年間 「松前産物中昆布第一」の記述あり
1682年 天和2年 「松前蝦夷記」敦賀の地に松前藩船宿2軒、松前問屋2軒、江差宿2軒、昆布屋3軒の記述あり
元禄年間 昆布輸出は、銀・銅流出防止のため俵物諸色代物替え頃から次第に盛んになる(1740年頃に昆布6,000駄)
1694年 元禄7年 初代:昆布屋伊兵衛 誕生 後9代続く
1709年 宝永7年 貝原益軒作「大和本草」に若狭昆布、昆布を刻み売る者多し、細く切ること金絲煙の如くあり、高貴の人々「召昆布」として食すと
1700年代 中頃から 昆布問屋・仲買人等が松前物産を組織
1710年頃から 東蝦夷の昆布増産を受けて大坂へ昆布が直接西回り航路で流入
1721年 享保6年 このころから刻み昆布が作られ始める
1750年頃 京極切り 昆布を積んで横からカンナ削りする方法が始まる
1762年 宝暦12年 大坂で刻み昆布業者23名で仲間組織を作る
1760年頃 宝暦年間 敦賀の高木善兵衛が細工昆布を始めたとの説
小浜に細工昆布仲間
1784年 天明4年 大坂で昆布問屋仲間
1789年 寛政元年 国後目梨の乱(根室)
1790年 寛政2年 大坂で「昆布商仲間」の組合が公認される
1791年 寛政3年 小浜・敦賀で長崎より職人を呼んで細工昆布加工を始めた、との説
寛政年間 昆布産地が厚岸・幌泉に広がる
1796年 寛政8年 高田屋嘉兵衛 自船「辰悦丸」初めて松前・函館へ
1798年 寛政10年 高田屋嘉兵衛 箱館に支店
1799年 寛政11年 大坂に「松前産物会所」設置される
同年 高田屋嘉兵衛 択捉島開拓の任に就いていた近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路を開拓
東蝦夷地が幕府の直捌となった結果東回りで江戸と直結
1801年 享和元年 嘉兵衛33歳 8艘で蝦夷地へ。エトロフ島からウルップ島まで航海 
1807年 文化4年 諸外国の脅威を恐れる幕府は蝦夷地を松前藩から召し上げ、蝦夷全島を幕府直轄にする
1804~18年 文化年間 江戸市中に昆布巻の行商人がいた記録あり
1824年 文政7年 「細工昆布仲間」を結成(『ものと人間の文化史・海藻』による)
1827年 文政10年 嘉兵衛死去、59歳。
1827~1840年 文政10年~天保11 島津斉興のもと 調所広郷は藩財政の立て直し
1830年 天保元年 随筆集「嬉遊笑覧」(喜多村信節著)に昆布巻や昆布菓子(ほいろ昆布)の記述
1832年 天保3年 近江商人藤野喜兵衛が花咲の漁業請負、のちに国後・択捉でも
1851年 嘉永4年 函館で刻み昆布製造始まる
1855年 安政2年 日米和親条約が締結され、函館は開港(寄港地として)
1859年 安政6年 函館 正式に国際貿易港として開港
広東の貿易商陳玉松が昆布を大量に購入
1860年 万延元年 記録によれば 昆布商仲間の数 137人
1871年 明治4年 廃藩置県
1872年 明治5年 株仲間解散、自由商取引
1882年 明治15年 「商工技芸浪華之魁」に昆布小売商数社掲載
1901年 明治34年 組合員数=201名(東区16、北区82、西区36、南区東部44、南区西部23)
大阪細工昆布商組合
総取締=清水定七、副取締=山本利助
大阪昆布仲買商組合
北海産荷受問屋組合 25名(靭・北堀江・南堀江・西道頓堀)
1903年 明治36年 大阪天王寺で内国勧業博覧会
1907年 明治40年 池田菊苗 旨み成分として昆布からグルタミン酸抽出
1908年 明治41年 大阪昆布同業組合発足
1918年 大正7年 大阪で市立の公設市場が設置される。昆布小売業もその限定された職種の一つに。
1923年 大正12年9月1日 関東大震災
1928年 昭和3年 昆布新聞(業界紙) 発刊
1934年 昭和9年3月21日 函館大火
1940年 昭和15年 10月 日本昆布配給組合結成
⇒17年1月に、日本海産物配給(株)に吸収される。
産地集荷から都道府県割り当てまでの全てを掌握。各県には傘下に配給機関が設立される。
1942年 昭和17年 企業整備令 ⇒ 各社廃業
1945年 昭和20年 太平洋戦争終結により昆布の供給量が激減(戦前北海道・樺太で5万トン以上⇒北海道のみ3万トンに)
1945年 昭和20年 (社)日本昆布協会 設立 幻?
1947年 昭和22年 統制協力団体として日本昆布協会を設立 ⇒ 23年夏日本昆布業会成立 ⇒ 24年9月統制撤廃のため解散
1949年 昭和24年 統制解除。それとともに統制組合は解散
1950年 昭和25年 朝鮮戦争
日本昆布協会を設立 = 現在の(一般社)日本昆布協会
1951年 昭和26年 サンフランシスコ講和条約
1952年 昭和27年 大阪昆布商工同業会を再開、149名(最高会員数186名)
1954年 昭和29年 北海道漁連 再建整備促進法の適用を受けて再建を図る = 昆布の全面委託販売
北海道昆布共販連絡協議会 設立 ⇒ 34年6月28日 北海道昆布共販協会に改組
1956年 昭和31年 昆布大暴騰
1957年 昭和32年 山崎豊子「暖簾」出版。
映画化:監督=豊田四郎、主演=森繁久弥、東宝配給、宝塚撮影所
昆布大暴落。尾札部元揃1等55,500円(10貫当たり) ⇒ 35,000円に等
1960年 昭和35年 大洋漁業は一括引受していた道南3銘柄の扱いを停止。これを受けて下記組合が設立される。
日昆を中心にソ連産昆布輸入運動の推進を決議。大阪・福井・広島・兵庫等の地区団体も陳情。
道南昆布販売組合 設立 ⇒ 昭和51年 道南昆布荷受組合に改組
1961年 昭和36年 大阪昆友会・兵庫昆親会・京都昆商会が合併し「近畿昆布協会」を94名で設立
1962年 昭和37年 大阪昆布商工同業会は山本利助会長名でソ連産昆布輸入を大臣外に要望書提出
1964年 昭和39年 このころから塩吹き昆布の売上が伸びる
1965年 昭和40年 「ソ連産昆布輸入促進協議会」を主要問屋業者が立ち上げ
1968年 昭和43年 業界有志により「日本昆布輸入(株)」(授権資本金8千万、払込2千万円)を設立
⇒道指導漁連総会で「絶対反対」の議決 ⇒ 参加企業に猛烈な圧力
1969年 昭和44年 促成(養殖)昆布始まる
水産庁、輸入会社の申請に200tonの輸入承認の内示
⇒ 道あげて反対、協議の結果輸入を取下げ、但し下記の条件
①利尻系昆布200tonの特配
②産地では増産対策を急ぎ、業界の要請に応える(道水産部も48年度産は36千トンを確信と)
1970年 昭和45年 大阪万国博覧会  大阪の小売り店は5割以上の売上増⇒大阪名物「昆布」の名声広がる
昭和46年頃 促成昆布本格的な増産体制整う。⇒ 49年1,100トンに。
1972年 昭和47年 中国昆布輸入650トン ⇒ 48年1,660トン
日本昆布協会は(社)日本昆布協会に組織替え
1975年 昭和50年 昆布養殖増産体制整う おしゃぶり・おやつ・おつまみ等新製品登場
1991年 平成3年 サハリン昆布輸入促進協議会設立総会
6月 サハリン昆布調査団を派遣(第一次)、翌年第二次調査団を派遣
1993年 平成5年 ソ連産昆布、戦後初めて輸入承認される(少量)

ページトップに戻る